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古典を人々の手元に引き寄せる好企画
大岡玲
ドストエフスキー:著、亀山 郁夫:翻訳
光文社[光文社古典新訳文庫]
760 円
ISBN: 4334751067

 外国文学や古典の翻訳と歳月の関係性は、ファッションの流行[はや]りすたりにちょっと似ている。たとえば、六本木あたりで催されるオペラのガラコンサートに鹿鳴館時代のドレスで出かけるのは、かなり勇気がいる行為だろう。もちろん、それがかえって格好良さと受け取られるケースもあるだろうが、やはり大多数の人は異様な風景だと考えるにちがいない。

 翻訳の場合も、かつて一世を風靡[ふうび]した名訳が、時の流れ、言葉の移り変わりの中で古びた、近寄りがたい存在に変じてしまうことはままある。新訳を刊行する意義というのは、そんな風に近づきがたくなってしまった作品を、もう一度人々の手元に引き寄せることにあるのだ。

 この九月に創刊された「光文社古典新訳文庫」は、そうした役割を意識しつつ、さらに刺激的な工夫を凝らした好企画である。その美点を、三つほど挙げてみよう。

 まず、作品の選び方が面白い。第一期刊行の八冊のラインナップは、次の通り。『カラマーゾフの兄弟1』『猫とともに去りぬ』『飛ぶ教室』『リア王』『ちいさな王子』『初恋』『マダム・エドワルダ/目玉の話』『永遠平和のために/啓蒙とは何か(他3編)』。

 カントの『永遠平和…』(中山元訳)とケストナーの『飛ぶ教室』(丘沢静也訳)を同じシリーズの中で、しかも同時に刊行するという発想が洒落[しゃれ]ている。哲学と児童文学に軽重の差をつけないこうしたやり方をしてもらうと、その両者の特質・類似点・相違点を読み比べてみる、もしくはカントの啓蒙論の一節によって、ジョニー・トロッツの成長を読み解くなどという贅沢[ぜいたく]ができる。

 第二点は、翻訳者の陣容だ。当今一流の外国文学研究者兼文章家を、きら星のごとく配している。しかも、作品と訳者のマッチングが絶妙だ。これだけのメンバーをどうやって口説いたのか、編集者の力量がしのばれる。

 第三に、新訳だから当然といえば当然だが、翻訳者ひとりひとりが訳し方の趣向に知恵をふりしぼっている。かつては難解をもって鳴ったカントのなんというわかりやすさ!

 「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。」

 まさに「西欧語にとって、哲学的な語彙[ごい]は日常的な言葉づかいから生まれたもの」、とバタイユの『マダム・エドワルダ/目玉の話』のあとがきで訳者の中条省平が書いている通り、こうであってこそ哲学は私たちの肉体感覚にすんなり座を占めうるのである。

 そのバタイユもまた、かつては「漢語を多用する哲学的な語彙と文語調の勢いのよさとで」、「少々分かりにくくても突っ走ってしまう訳文」で紹介されてきた。が、今回の中条訳は、角ばった部分がみじんもない見事な文体を駆使し、「エロティシズムの地獄くだり」や「世界の非人間的な恐ろしさ」を通じて「神なき至高性の体験」を描きだそうとするバタイユ文学の髄を突きつけてくれる。エクスタシーと壮絶な孤独、そして絶望に猛烈なスピードでアタックされ、めまいのする法悦を私たちは味わう。

 日本ではあまり知られていないイタリアの児童文学作家ロダーリの短篇集『猫とともに去りぬ』(関口英子訳)を、シリーズの第一弾に加えたセンスも素晴らしいものだ。イタリアは詩と奇想の王国である。ロダーリの作品は、その特質の典型をあらわしているといっていい。

 家族に疎外されていると思い込んだ老アントニオが、ある日決心をして猫になってしまう表題作には、現実世界とファンタジー世界の境界など存在しない。「猫の縄張りと自動車の縄張りを隔てている鉄柵を越えると」、人は簡単に猫になれる。

 原子分解電送装置でDNAレベルまで分解された時、たまたま装置に入ってきたハエと混じり合うことでやっとハエ男になれるハリウッド式SFの面倒くささは、ここにはみじんもない。日常と詩が無理なく、そしてアイロニカルに接続しているのだ。

 沼野恭子のやわらかく繊細な訳文で蘇ったトゥルゲーネフの『初恋』は、ごちそうを急いでかき込みたくなるような衝動を呼び起こすのだが、ここはそれをこらえてゆっくり青春の美味を[]みしめたい。十六歳の少年の普遍的な「初恋」とそれを「効果的に補強する」自然描写の妙技!

 そして、大物『カラマーゾフの兄弟』。亀山郁夫は、フランス風エスプリともイギリス流ユーモアともひと味異なった、ドストエフスキーのちょっぴり土臭い諧謔味[かいぎゃくみ]を、完璧なまでに表現する訳文を生みだした。かつてこんなにもスラスラ読めて、しかもズシズシとからだの中に内容がしっかりたまっていくドストエフスキーを読んだ記憶はない。第二巻が待ちどおしい。

 みずからの新発見のため、そして子供のために大人がそろえるべき文庫だ。(『リア王』は安西徹雄訳、『ちいさな王子』は野崎歓訳)

古典新訳文庫が創刊(2006.9.3)
光文社 古典新訳文庫について
<毎日新聞 2006年10月8日>
カラマーゾフの兄弟1
ドストエフスキー:著、亀山 郁夫:翻訳
光文社
760 円
ISBN: 4334751067
永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編
カント:著、中山 元:翻訳
光文社
680 円
猫とともに去りぬ
ロダーリ:著、関口 英子:翻訳
光文社
560 円
飛ぶ教室
ケストナー:著、丘沢 静也:翻訳
光文社
500 円
帝国主義論
レーニン:著、角田 安正:翻訳
光文社
600 円
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