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「永遠の人間喜劇」を生き生きと
渡辺保
ニール サイモン:著、Neil Simon:原著、酒井 洋子:翻訳
早川書房
735 円
ISBN: 4151400028

 抱腹絶倒、大いに笑った。

 アメリカの現代喜劇作家ニール・サイモンの代表作「おかしな二人」。舞台、映画でさんざん見て来た作品である。今さらなんだと思われるだろうが、これには少しばかりワケがある。

 今度早川書房で「演劇文庫」という文庫本をはじめた。第一回がこの『おかしな二人』とアーサー・ミラーの『セールスマンの死』の二本である。

 それを何気なく手に取った。手に取るとまことに持ち心地がいい。読みやすい。つい二、三頁読むうちに引き込まれてアッという間に読んでしまった。そして思わずタメ息をついた。私は今まで本当の「おかしな二人」を知らなかったと思ったからである。

 私は今まで何度見てもこの芝居を面白いと思ったことがなかった。ニューヨークのアパートの一室。離婚した男のところへ離婚調停中の友人が転り込んで来る。一人は部屋がどんなに汚くても平気な男、もう一人は料理が得意でキレイ好き。当然ケンカになる。そのスッタモンダを描いた三幕の喜劇である。

 これが私にはちっとも面白くない。ただの一場の風俗喜劇にしか見えない。その上に日本の「おかしな二人」の舞台には、およそニューヨークの街の匂いがない。ニール・サイモンのソフィスティケート(洗練)された繊細さがない。そういえば日本のサイモン劇がほとんど成功しないのは、日本人にこのソフィスティケートされた感覚がないためだろう。

 それでは映画はどうか。これまた面白くない。やっぱりサイモンの芝居は一つのセット、せりふだけで見せる芝居であって、空間的には自由なはずの映画がかえって不自由ッたらしく見える。緊密さがなくなる。

 ところが今度の文庫本を読むと実に面白い。下手な役者の場当たり芝居や、どう見ても昨日今日日本の山奥から出てきたようなニューヨークっ子が出て来ない上に、訳者酒井洋子がこの文庫本のために手を入れた新版がまことにイキイキとして想像力を刺激する。

 そして私は「おかしな二人」ではじめて心ゆくまで笑った。笑った上にこの芝居に人間の基本的なドラマがあることを思った。

 二人の男は互いに自己中心的であり、孤独であり、互いのコミュニケーションをとりかねている。ディスコミュニケーション。友情を感じながら、その表現の術を知らない。不毛の関係。これでは二人が女房に愛想をつかされるのも仕方がないが、人間には誰でもそういう側面があることも否定できないからやむを得ない。そこに描かれた人間の姿は、今日の私たちの肖像だといってもいい。それを作者は実に細密、繊細な計算で書いている。片言隻句、一言さえもおろそかになっていない。

 しかも第三幕に至って、二人はついに自己を改造しなければならなくなる。一つのセット、せりふ劇だから気がつきにくいが、この変化は実は精神的な大スペクタクルである。ここにはほとんど永遠の人間喜劇があり、その深さは、人間の孤独と絶望においてベケットやイヨネスコに劣らぬものである。

 最後に巻末の訳者あとがきがすぐれている。どの部分がすぐれているかは読んでのお楽しみ。そこには日米両国の「おかしな二人」の舞台の根本的な違い、いや両国の喜劇の感受性の違い、ひいては文化の構造の違いが具体的に指摘されている。これは長い間、この芝居を愛しつづけて来た酒井洋子ならではの、日米比較文化論であり、まことに味わい深い。

<毎日新聞 2006年10月15日>
ニール サイモン:著、Neil Simon:原著、酒井 洋子:翻訳
早川書房
735 円
ISBN: 4151400028
アーサー ミラー:著、Arthur Miller:原著、倉橋 健:翻訳
早川書房
840 円
ニール・サイモン:著
早川書房
3,675 円
書いては書き直し - ニール・サイモン自伝
ニール サイモン:著、Neil Simon:原著、酒井 洋子:翻訳
早川書房
3,780 円
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