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◇柔軟な判断を可能にした「脳の冗長性」
海部宣男
ジェラルド M・エーデルマン:著、冬樹 純子:翻訳
草思社
1,890 円
ISBN: 4794215452

 四三歳でノーベル医学・生理学賞を受賞した著者がその後取り組んだのが、意識のしくみを物理学・生物学・進化論を基礎に解明しようという、壮大なテーマだった。本書は、四半世紀の研究で達した到達点を、本人がわかりやすく凝縮してまとめた解説である。到達点の高さに加え、意識研究の最先端への入門としても、出色であろう。

 ところで、過去積み重ねられた意識についての莫大(ばくだい)な考察では、身体・魂の二元論や形而上(けいじじょう)学が主流だった。そもそも意識を考えようとしている主体はといえば、それは自分という人間の意識だ。意識が意識を理解することなんて、原理的にできるのだろうか?

 そうしたことをふまえながら、著者の立場は確固としている。意識の解明に、形而上学は必要ではない。科学の言葉で意識を説明するという大目標を明確に掲げ、精緻(せいち)な考察を展開してゆく。なかなかの丶見ものだ。本書には聞きなれない言葉が多く登場するが、解説でも触れているように、意識が科学の研究対象になり得るという理解が広まってきたのは、ごく最近のことなのである。巻末の周到な用語解説が便利だ。

 「意識」について、科学的にはいま、どんなふうに了解されているのだろうか。人間の脳の中では、三百億のニューロンと千兆個のシナプスが、進化とともに発達した脳の各部分を網の目のようにつなぎ、とてつもなく複雑な回路を構成している。宇宙的規模と言いたくなるこの回路は、内部や外界からの刺激に反応しつつ、状態を刻々変えてゆく。その総体が、意識の背後にある本体だということらしい。そうした脳内回路のダイナミックな活動が、脳磁場の変化からリアルタイムでとらえられるようになって、脳と意識の研究は新しい時代に入った。

 さて著者によれば、人間はもちろん広く鳥類や哺乳類は、「原意識」と呼ばれる原始的・基本的な意識を持っている。それはさまざまな外部刺激や内部刺激を総合して、現時点の自分の状況を把握する。原意識は状況に応じた個別的な判断と反応を個体にもたらすから生存には有利で、選択的に進化してきたと見るのだ。脳の生理学的・解剖学的見地からは、爬虫(はちゅう)類からの進化のあたりで獲得されたのではないかと著者はいう。

 その原意識が生まれる上で重要なもののひとつが、同じ機能を持つ脳の回路が重複してたくさん存在する、冗長性=縮退だ。脳の回路システムは、個体にとっての価値(もちろん、一番重要なのは生き延びること)記憶を参照しながら結合を絶えず変化させ、知覚に対応して有利な反応を導くパターンを作り出すように働く。その際、回路の冗長性が多様性を生み、柔軟な解釈・判断を可能にするのだ。脳内でそうした活動を行っている総体を、著者はダイナミック・コアと名づけた。動的に変化するコアのプロセスに対応して、それと表裏一体の転換である「意識」が必然的に表れると考える。それが、原意識だ。

 さらに著者は、これらを基礎に、人間の特徴である自己の意識と過去・未来という時間意識とを伴う「高次の意識」への発展を展望してゆく。たいへん刺激的である。

 回路自体が重複しあいまいだからこそ、多様でクリエイティブな意識が生まれるという視点を、著者はとりわけ重視する。生物進化において多様性が果たす大きな役割とも重なって、納得できる視点だ。「あるひとつの表象を構成し得る脳の状態は多数存在し、それらの状態を生じる信号は文脈に依存している。すなわち意識は、その個体の歴史と切り離せない」と著者は述べているが、このあたりに、「自由意志」の秘密も潜んでいるということか。

 「脳は、統合せずにいられない」というのも、面白い。たとえば盲点の存在を感じないのは、脳が盲点によるイメージ欠損を自動的に充填(じゅうてん)してしまうからだ。脳はさまざまな統合を行い解釈しようとする。結果として行動を選択するためだが、統合することで、錯覚も含め「与えられた情報を超えてしまう」。このあたり本書のタイトルにも通じるところだろうが、残念ながらあまり深くは追求されない。

 そう、これは脳の偉大さをロマンチックに語る本ではない。その点だけは、タイトルに引っ張られて期待しすぎないほうがよさそうだ。

 本文一八〇ページたらずのコンパクトさだが、中身は濃い。最短コースで一気に高みへゆくには息切れもするが、よく考えられた図と解説が、理解を助けてくれる。名教授の磨きあげられた講義を聴く学生の高揚した気分を、久しぶりに味わった。総まとめでもある最後の二章「自分であること」「心と身体」あたりでは、それまでの積み上げがめざしていたゴールが見えてきて、なるほどと腑に落ちるのだ。

 脳が将来コンピュータで模倣できるという見解を、著者は支持しない。脳の持つ莫大な冗長性を踏まえてのしめくくりは、「『私という現象』はこれからも変わることなく、自然からの最高の授かり物であるにちがいない」。

 現代的価値の高い、最後まで聴くべき講義である。(冬樹純子・訳)

<毎日新聞 2006年12月10日>
脳は空より広いか―「私」という現象を考える
ジェラルド M・エーデルマン:著、冬樹 純子:翻訳
草思社
1,890 円
ISBN: 4794215452
ジェラルド・M. エーデルマン:著、Gerald M. Edelman:原著、神沼 二真:翻訳
岩波書店
赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由
ニコラス ハンフリー:著、Nicholas Humphrey:原著、柴田 裕之:翻訳
紀伊國屋書店
2,100 円
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