刺激的な本である。今後の日本と世界、少なくとも東アジアの行く末にかかわると言っても大げさではない。
歌垣(うたがき)をご存知だろうか。「古代、男女が集団で飲食歌舞しつつ、相互に歌い掛け歌い返す行事。本来、生産の予祝行為であり、性の開放を伴っていた」と『日本古典文学大辞典』にある。なにやらゲーテ描く「ワルプルギスの夜」さながらだが、現実の歌垣はそんなものではないと著者は言う。何を根拠にといえば、「一九九四年に中国少数民族の無文字の歌文化の調査を開始して以来、数々の現代に“生きている神話”と現代に“生きている歌垣”に出会ったからである」というのだ。
むろん高度成長下の中国である。生きている古代も風前のともし火、かろうじて調査に間に合ったというところだろうが、その成果たるや半端ではない。『古事記』『万葉集』成立以前の世界に直面したようなものだからだ。歌垣に関していえば、予祝行為とは限らず、男女は広い地域から集まるが同じ言語で歌えるものに限り、旋律は固定、歌詞は定型、即興のための教養、技量が不可欠といった条件のほかに、配偶者を得るために公開で行なわれる長時間の真剣な歌合戦なのだから、飲食歌舞しながらなどできるはずがないということになる。
このような歌垣の実際から『古事記』『万葉集』を読み直すとどうなるか。まったく新しい相貌(そうぼう)を呈するのは必然だが、しかし重要なことは、日本民族もまた中国少数民族のひとつに近かったにもかかわらず、幸いにも漢民族の支配すなわち儒教の支配を免れ、恋歌の伝統を必須のものとしたまま国家を形成し、ついには近代化まで成し遂げたことであると著者はいうのである。伝統は、現代の象徴天皇制から短歌俳句の結社にいたるまでいまなお脈打っている。東アジア文化の基底をなすこの要素こそ、二十一世紀の世界がもっとも必要とするものではないかというのだ。
神話の考察も興味深い。
神話は祭式において歌われ、伝承されていた(1)。やがて、祭式を離れ(2)、語られ(3)、説明されるようになり(4)、複数の部族の神話が合流することになり(5)、取捨選択され再構成される(6)。国家の成立とともに再構成された神話が一貫した意志のもとに書き記される(7)。これが『古事記』だが、この文字神話からさらに変形譚(たん)が生まれる(8)。
調査にもとづいて著者が提示した「神話の現場の八段階」である。つまり『古事記』編纂者たちにとっても、歌垣の時代、神話の時代はすでに古代、<古代の古代>だったというのだ。『古事記』そのものが<古代の近代>の所産なのであり、考古学的復元が必要とされるというわけである。たとえば、歌は同じ内容を別な表現で繰り返すことを特徴とするが、現行の『古事記』は<古代の近代>の眼で編集されているため、微妙な反復を多く脱落させ原意を曲げている。あるいはまた、ヤマトタケルを悼んで歌われた四つの歌は、古くは彼岸への道が悪路であることを口実に死者と別れるための歌だったのが、<古代の近代>の手によって死者を慕うだけのものに書き変えられている、など。
ここ十数年、『古事記』『万葉集』を広く東アジアの視点から眺め直す機運が起こっている。本書はその先端にあり、かつて白川静が、古代中国の甲骨文金文研究の後に、『漢字』『漢字百話』を一般向けの新書として発表した折の衝撃に続くものだ。
二十一世紀を制すといわれる東アジアの全体が、いま新しい視点を提示しつつあるのである。