かなりなマンガ通でも、アメリカのコミックス事情は、あまり知らないだろう。マンガ評論をてがける人たちでさえ、そちらへ目をむけようとは、してこなかった。翻訳されるものも、このごろはすこしふえてきたが、その数はかぎられる。
ポピュラー音楽なんかだと、アメリカのミュージック・シーンからは、目がはなせない。いわゆるJ・ポップも、しばしばあちらの事情にからめて、論じられる。誰それの曲はむこうの某曲をぬすんでいた、などという指摘も、よく聞かされる。
くらべれば、マンガをとりまく環境は、けっこう鎖国的である。「マンガほど海外の歴史や文化状況への関心が希薄なジャンルは他にない」。著者はそうなげいているが、まことにそのとおりであろう。
こう書けば、アメリカのコミックスなどたいしたことはないと、反論されようか。アメリカで読まれているのは、スーパーマンやバットマンのようなヒーロー物ばかり。どれもこれも、子供だましのマッチョな読み物で、論じるにはあたいしない、と。
あるいは、コミックスコードの問題にも、半可通はふれてくるかもしれない。アメリカでは、児童保護のたてまえから、コミックスの表現が、過度に制限されている。あれでは、お子様むけの作品しかつくれないと、見下してしまうむきもおられよう。
しかし、アメリカにも、じっさいには大人の読むコミックスがある。ポルノコミックスも、ないわけではない。ただ、それらはいわゆるコミックスショップでは、売られてこなかった。たとえば、ポルノコミックスは、ポルノショップで売られている。コミックスショップの商品だけで、アメリカの全コミックスを判断するなと、著者は言う。
ヒーロー物についても、意外なあちらの状況を、この本はおしえてくれる。
たしかに、朝鮮戦争のころは、戦時宣伝めいたマッチョな作品が多かった。しかし、一九六〇年代になると、心の葛藤をかかえたヒーローも、登場しはじめる。ドラッグ、人種問題などで傷つくヒーローたちである。ヒーローの不倫劇さえあらわされなかったわけではない。
彼らの内面は、コマのわりつけやフキダシのレイアウトにもささえられて、しめされる。そして、モノローグの場面は、さまざまな工夫とともに、えがかれてきた。六〇年代以後のヒーローコミックスは、擬似近代文学的な様相を呈しだしたのである。
日本の少女マンガだけが、モノローグの表現をねりあげていったわけではない。海のむこうでも、似たようなこころみはなされていた。
のみならず、二〇世紀末には、ヒーロー物の再生と言ってよい現象もおこっている。一九九〇年代には、苦悩するヒーローがあふれかえり、飽和状態にたっしていた。そのなかで、とうとうヒーロー物の正統へたちかえる作品も、出現するにいたっている。こちらは、擬似近代文学をのりこえるポストモダニズムに、なぞらえられるべきか。
こういうあゆみを知らずに、マッチョな子供むけの読み物だと、きめつけるべきではない。アメリカンコミックスも、あなどりがたい地平にたどりついている。日本だけを見て、日本マンガの水準を高いと言うのは、お国自慢のかたよりが強すぎる。
二〇〇一年の九月一一日におこったテロのことは、誰しもおぼえておられよう。航空機で体あたりをされた世界貿易センタービルが崩壊したことも、記憶に新しい。
この事件は、コミックスのありようにも、深刻な影響をおよぼした。たとえば、ナショナリズムへ傾斜した作家が、おおぜいいる。コミックスのなかで、都市の破壊されていく光景を、のんきにえがけなくなった者もいた。作家としての自分を見つめなおした書き手も、けっこういる。
そんな現場を知った著者が、アメリカの現代史を、もういちどふりかえる。そして、国家や社会のありようがコミックスの表現を左右する歴史に、ゆきあたる。米ソの冷戦やベトナム戦争もまた、コミックスに影をおとしている。そのことを、あらためて思い知るのである。
ならば、日本はどうなのか。
日本のマンガ評論は、ここしばらく、作品としてのしあがりを問うてきた。描線や動作のデッサン、陰影のつけ方などが、しばしば分析の対象になっている。社会史的な背景は、あまり俎上(そじょう)にあがらない。そんな現状へ、著者はあえて「社会反映論」の立場から、刃をつきつけている。
アメリカンコミックスの作家名や作品名は、ほとんどわからない。知らない固有名詞ばかりである。それでも、私はいっきに読了した。著者の筆力に敬意をあらわしたい。