今週の本棚
はてなブックマークに追加
チェーホフ伝の底に花やかな仕掛け
丸谷才一
集英社
ISBN: B000VH1VEQ

 『ロマンス』は一見したところチェーホフの伝記を芝居に仕組んだものである。壮年、青年、少年、晩年の彼を四人の男優が演じて、妻オリガ・クニッペルとの出会いから死までをたどる。そしてこの局面においてもすばらしい出来。しかしそれを一皮めくると、井上ひさし自身の文学的=演劇的方法の宣言という性格が現れる。この二つの層の重ね合せがうまく行っていて、じつにおもしろい。楽しめるし胸を打つ。

 しかし後者については説明が要る。まず「ヴォードヴィル」という専門用語について一言。これはフランス語でもともと「街の唄」の意だが、パリの芝居小屋の無言劇を言うのに用いられた。次いで、コメディ・フランセーズの勿体(もったい)ぶった正攻法の劇と対立する音楽入りの芝居のこととなり、十九世紀の通俗喜劇やライト・オペラの発展に影響を与えた。このころになると特にアメリカでヴァライエティ・ショーに適用されるようになり、イギリスのミュージック・ホールと同義になった。主要なプログラムは唄、寸劇、踊り、手品、アクロバット。一九三〇年代、ラジオの到来と共に衰頽(すいたい)し、スターたちは映画に移った。

 学生時代、家族を養うため滑稽小説を書きつづけたチェーホフはヴォードヴィル作家と自称していたし、後年の戯曲もヴォードヴィルになぞらえ、スタニスラフスキーの演出は自作戯曲を誤解したものと見なしていた。そして井上は無名時代、浅草フランス座の座付作者であり、『ひょっこりひょうたん島』の共作者の一人であったし、現在は唄入り踊り入りの喜劇ないし笑劇を書きつづける。

 すなわち『ロマンス』の作中人物チェーホフが何度も使う「ヴォードヴィル」とは、勿体ぶって深刻に偉そうに構え、そのくせ空疎な文学的態度に対する反抗と対立を意味する。現代日本の劇作家は帝政ロシアの劇作家と連帯し共闘して、軽くて楽しい文学の擁護と顕彰をおこなおうとする。しかもまことにヴォードヴィル的に。

 それがとりわけあざやかなのは、老い衰えてぼけた文豪トルストイがチェーホフの病気見舞いに訪れ、人生論を説くくだり。劇作家と演出家の、『三人姉妹』の演出をめぐる激論の合間に老文豪の他愛もない人生訓がはいって、劇的緊張を保ちながら大いに笑わせる。しかもそれにつづく、傷心のチェーホフを慰めるためオリガがトルストイの物真似をするくだりは、歌舞伎の鸚鵡(おうむ)(主役が派手なしぐさや利(き)きぜりふを言って引込んでから、三枚目の役がその通りの真似をする喜劇的演出)を応用して、藍より青きもの。笑劇的効果をあげて楽しませながら夫婦の情愛をじっくり味わわせる円熟した作劇術で、わが近代演劇最初の趣向かもしれない。うまいなあと嘆賞した。

 しかし名匠の名作にも瑕瑾(かきん)がないわけではない。老文豪の説きつづける人生心得十二カ条は、人生の苦しみを和らげる秘訣で、「第一条、指にトゲが刺さったら、『よかった、これが目じゃなくて』とおもうこと」にはじまり、以下この調子でつづくのだが、トルストイは第九条をどうしても思い出せないし、そのくせ第九条にこだわる。これはどうやら、われわれが日本国憲法第九条(戦争放棄)を忘れたことにかけているらしいが、この、落語で言えば考え落ち、芝居で言えば楽屋落ちは、チェーホフ伝とまるで違う文脈なのでストンと納得がゆかない。折角の歌舞伎の富の応用が仕損じている。もう一工夫あって然るべきだろう。

<毎日新聞 2007年9月23日>
すばる 2007年 10月号 [雑誌]
集英社
ISBN: B000VH1VEQ
夢の痂
井上 ひさし:著
集英社
1,365 円
井上ひさしの 子どもにつたえる日本国憲法 (シリーズ 子どもたちの未来のために)
井上 ひさし:著、いわさき ちひろ:イラスト
講談社
1,000 円
新釈 遠野物語 (新潮文庫)
井上 ひさし:著
新潮社
540 円
父と暮せば (新潮文庫)
井上 ひさし:著
新潮社
340 円
「今週の本棚」掲載新聞   このサイトについて   引用とリンク   RSS
毎日新聞社
Copyright 2006-2007 THE MAINICHI NEWSPAPERS.All rights reserved.
掲載の記事・写真・図表などの無断転載を禁止します。
著作権は毎日新聞社またはその情報提供者に属します