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宇宙的な思想が際立つ未完の遺作
三浦雅士
大庭 みな子:著
講談社
1,680 円
ISBN: 4062142716

 人々の感情がもつれてうねる物語も面白ければ、そのうねりがそのまま匂い立つような文体も素晴らしい。けれど、大庭みな子の小説の最大の魅力は宇宙的というほかないその思想にある。母系制の復活といってもいい。母を通して生命の愛(いと)しさ哀しさをまっすぐに感受しようというのだ。

 一万年前、人類は農耕とともに母系制から父系制へと移行したと言われる。すなわち土地も女も男が所有することになってしまった。こうして、名を残すことに汲々(きゅうきゅう)とする男たちの歴史が始まったわけだ。それは一神教の、戦争の、テロの歴史、要するに文明という野蛮の歴史だ。もういい加減、間違いに気づいてもいいではないか。大庭みな子は、母というよりは女の、女というよりは鳥獣虫魚、山川草木、無生物にまで浸透した生命の論理を掲げて、そう示唆するのである。

 もちろん考古学も歴史学もそんな粗っぽい議論は否定する。だが、考古学も歴史学も年年歳歳、新しい。この一世紀、日本史も世界史も何度も書き直されてきた。真実の歴史などありえない。歴史とは豊かな未来を構想するための手段にすぎない。大庭みな子の小説が人を感動させるのは、人類の過去と未来をこれまでとはまったく違った目で眺めさせるからなのだ。

 母系制の復活という必要もない。大庭みな子によれば、ほんとうは母系制が途絶えたことなど一度もないからである。人類史上、母は自明であっても父が自明であった例(ためし)はない。それだけでも十分な証明だが、たとえば世界的に核家族化が進行している現在、家族は結局、母を基軸に展開している。

 『七里湖』の主人公は菱田雪枝。四十歳。時は一九九三年、所はアメリカ。ケネディ空港に降り立った雪枝は、十七年前、十一年ぶりに故国に帰って羽田空港で異父兄・森人の出迎えを受けたときのことを思い出す。

 雪枝は、一九六〇年代なかば、中学生の交換留学生としてアメリカに渡り、以後十一年をその地で過ごした。二十三歳になって帰国した後、二児の母となったが、結婚はしなかった。長女・真理の父はマーレック、次女・柚香の父は健。マーレックも健も、アメリカに帰った後に、自分の子供の存在を知った。雪枝が結婚制度の枠外で子を育てることを決意したのは、森人の連れ合いの〓子(りょうこ)も同じ境遇にあって、応援することを約束したからである。真理は十六歳、柚香は十五歳。ともに、森人と〓子が営む私塾「七里湖塾」に入れている。雪枝は、真理の存在を知ったマーレックから送金を受け、真理の今後のこともあって久々にアメリカの地を踏んだのである。

 長篇『浦島草』(一九七七年)の後日譚(たん)である。『浦島草』は恋人のマーレックとともに日本へ帰ってきた二十三歳の雪枝の視点で書かれ、『七里湖』はマーレックと別れて日本に留まり、二児を育てた後、アメリカを久々に訪れた四十歳の雪枝の視点で書かれている。前作を裏返すように物語は展開するが、前作を離れても十分に面白い。

 「つい二三日前、トレードセンターで爆破事件があった」とあってぎくりとするが、これはトレードセンターが崩落した九・一一に先立つ八年前のテロ事件のこと。だが、「アメリカは恐しいばかりの富を目に見えないところに抱えて、世界中の恨みを買っている」とあって、九・一一以後の世界を予見している。現在の核心を真正面から見据えているのだ。『浦島草』の結末はほとんど幻想譚だが、『七里湖』を読むと事態はまったくそうでなかったことになる。思想が際立つ地点だ。

 「ぼくの父はナチスに殺されたし、ぼくの母とぼくはアメリカの軍人に養われたし、あなたはアメリカ人夫婦の家に養われ、あなたの近親者たちの中には原爆の被災者や朝鮮戦争の犠牲者がいたりする。アンナの夫はヴェトナム戦で殺された。/つまり、ぼくたちは同時代に生きているわけだ」

 豪雪による交通麻痺(まひ)のために会えなかったマーレックから届いた手紙の最後の一節。雪枝はこの手紙を読む前に、マーレックがこれを書いた直後に急死したことを知っている。物語の展開といい文体といい、絶頂期にある小説家の作というほかない。

 マーレックからの手紙で第一部が終わり、真理からの手紙で第二部が始まる。第二部は、雪枝がアメリカを訪ねてから三年後、一九九六年に設定されている。真理も柚香もアメリカに渡っているのである。

 作品はここで断ち切られている。雑誌初出は一九九六年。作者はこの直後、脳梗塞(こうそく)に倒れ、以後、半身不随の車椅子生活を余儀なくされた。去る五月二十四日逝去。同時に刊行された文集『風紋』(新潮社)がその経緯を浮かび上がらせている。

 主題も作風も違うが、漱石でいえば『明暗』の位置にある。完成させるための力を養っていたが果たせなかった。だが、デッサンは完璧で、彩色もまた全体を偲(しの)ばせるに十分だ。未完であることの謎がそのまま生命の謎に直結している、と思わせる。

 傑出した作品である。

<毎日新聞 2007年9月23日>
七里湖
大庭 みな子:著
講談社
1,680 円
ISBN: 4062142716
風紋
大庭 みな子:著
新潮社
1,470 円
大庭みな子全詩集
大庭 みな子:著
めるくまーる
2,940 円
寂兮寥兮(かたちもなく) (講談社文芸文庫)
大庭 みな子:著
講談社
1,155 円
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